御影堂

西本願寺は、浄土真宗のお寺です。京都駅の前には東本願寺があり、こちらも浄土真宗のお寺です。それでは両者で何が違うのでしょうか。実は仏像やお経などに大きな違いはありません。もともとは一つのお寺でしたが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国時代の名将との関係の中で分裂し対立していくことになります。

分裂のきっかけは16世紀後半に遡ります。本願寺は関連の寺院が日本中にたくさんありましたが、その総本山は石山本願寺であり、現在の大阪城がある場所に拠点を置いていました。織田信長は外国との国際貿易の拠点になり得るということで、大阪の石山本願寺の場所を狙っていました。そして信長は石山本願寺に軍資金という名目で現在の日本円にして30億円という理不尽な要求を行います。浄土真宗の思想の一つに権力者に従うという考えがあったため、当時、石山本願寺のトップだった顕如は支払いに応じます。しかし、信長の要求はさらにエスカレートして最終的には石山本願寺を渡せと言い放つのです。そのため、さすがの本願寺も我慢できず、ついに信長VS本願寺の10年間にも渡る戦争が勃発することになったのです。

御影堂内部

今でこそ、平和な印象が強い日本のお寺ですが、戦国時代の当時は土地も金も武力も揃っており、それに基づいた実力が備わっていました。特に本願寺は規模も大きく、戦争初期は一大勢力として他の武将と一緒に信長包囲網を形成し、信長と互角に戦ったほどです。しかし、戦争は長期間に渡り、多くの犠牲者がでたため、両者の間で和睦の話が出ます。しかし、石山本願寺のトップである顕如上人(けんにょしょうにん)と三男の准如(じゅんにょ)は和睦を、長男の教如(きょうにょ)は籠城して徹底抗戦を主張し、意見は厳しく対立しました。これが分裂のきっかけです。結局、1580年に和睦して、顕如は石山から退去して和歌山県へと移ります。ところがこの時、信長との徹底抗戦を主張した教如は、石山本願寺に籠城。数ヶ月の籠城ののちに降伏し、最終的には信長に大阪の地を明け渡したのでした。

その後、豊臣秀吉の時代になり、1591年、顕如は秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建設します。これが現在の西本願寺です。それでもなお、本願寺内で力を持っていた教如は、秀吉の死後、権力を握った家康に接近し、1602年七条烏丸に寺地の寄進を受けます。これが東本願寺の始まりで、ここから、教如の東本願寺と准如の西本願寺の2つが存在することになりました。

東西本願寺に分かれたのは、本願寺のお家騒動と言うよりは、信長、秀吉、家康の、3人の権力者による勢力争いに巻き込まれて、その勢力を二分されたと言えます。

西本願寺